2004年5月2日(日)
早朝の電話はいつも、嫌な予感を私にさせる。平日なら朝7時30分の電話はあり得る。子供達が通う園や学校関係の誰かからの連絡などだから。でも今日と言う休日のこの時間の電話は…。
予感は的中。祖母が他界した。
大正2年生まれ。享年91才。お世辞にも、安穏とした人生だったとは言えない生涯を、ついに祖母は全うした。
精神はもうとうに、この世を離れていた。元気だった頃の祖母自身がよく言っていた事だ。御長寿とはいえ、体は医学で生かされ続けていても、魂はもうこの世を離れて彼岸に逝ってしまっている人がたくさんいる、と。ああならずに死ねたらいいねえ、というのが祖母の願いだったが、それは果たされなかったのだ。
最後に私が祖母と話したのは5年前。お正月に私が送った年賀状の、1才の娘の写真が愛らしいと喜び、さらに私が二人目を妊娠しているということを喜んで、大阪から、当時私が住んでいた名古屋まで電話をくれて「電話代なんか気にせんでもよろしい」とたくさんおしゃべりした。
祖母はやはり昔の人なので、「一姫ニ太郎がええなあ」と何度も言った。綺麗で可愛いもの好きな祖母は、女の子が一人はおらな、家が殺風景でかなわんで、その点あんたはもうええ、そやけどねえ、男の子も産まんと嫁ぎ先の家に悪いやろ?お腹の子が男の子やったらこんなに嬉しい事はないわねえ、と言うのが私にはおかしかった。昔の女の勤めはとにかく、嫁してその家の跡継ぎたる男児を産むことだという思想なんだなあ、と実感できて。
そう言いながらフォローに、でも男やからええ、いうもんでもないしなあと、祖母お得意の昔話を披露してくれたものだった。
半年後、私は息子を産んだが、喜んでくれるである祖母の精神は、その時もうこの世を離れていた。ある日を境に急速に、祖母の魂はたくさんの思い出の人々が待つ涅槃の岸に旅立ってしまったらしいのである。そして後に残された体だけが、5年の歳月をかけて、ゆっくりとその3つの時代にまたがった人生の役目を終える支度についたのだった。
母と妹から、我が家が今全員体調が万全ではない事、東京から駆け付けなくても、葬儀は最低限度小規模にして(もう祖母が親しくしていた血族も、友人も存命ではないのだ。5年前から誰とも交際していないというのもある)明朝10時からさっと済ませてしまうので、来なくてもいいと言われた。オットと話し合う。母からも妹からも何度も電話があり、くれぐれも無理をしないで、あとでゆっくり墓参すれば良い、位牌はいつでも叔父が持っているからと言われた。結局、葬儀に大阪へと駆け付けるのは断念することを決定。
朝食を家族に作り、自分も食べ、後片付けをしながら、ぼろっと涙が落ちて来た。鼻水をすすりながら、私は祖母に聞いたたくさんの話の一部を、オットにとりとめもなく話し続けた。
祖母は家事が大っ嫌いで、料理がまずく、掃除下手で有名だった。和裁で何十年も家族のために働き続け、6人の子供を育てたが、仕事である和裁への情熱はすさまじいものがあり、そのために母としては不十分だったと何十年も私は母の繰り言をきかされてきた。祖母は日本の伝統芸術をこよなくあいし、かつ洋画が好き。「わたしなあ、永遠の少女趣味なんよ」というのが祖母の口癖だった。
祖母の昔語りは、私の母やその兄弟達には「嘘ばっかり」と話半分に聞かれていたけれど、不思議に満ちていて、今市子さんの「百鬼夜行抄」の世界に通じるものがあった。ともすればふと、この世とあの世を隔てるものはわずか薄もの1枚の布のようなものでしかないと言い、現実の世界をたくさんの魔物と神が入り交じって歩いている、自在に人に乗り移って気紛れに人をあやつって笑っている、と言っていた。
わがままで、明るくて、のんきで、好きなように癇癪をおこし、身勝手で、でも根本的には人が好きで、気が付いたときには人に対してとても親切な祖母は、周りの人を振り回し続けた。6人兄弟の2番目、長女の母は一番の祖母の被害者で恨み骨髄。でも今朝から号泣しつづけている。
祖母はわたしのことも気紛れに愛した。祖母は自分の血族寄りの顔だちが好きで、その顔を受け継いで生まれた子を愛したが、それは孫にまで遺伝されなかった。私は祖父に激似と言われている。その祖父と祖母はけっして相思相愛でもない、親に決められて結婚した相手であり、祖父が先になくなって10年以上たってもまだ祖母は悪口を言い続けていたものだ。
「でもね」祖母は私に対するフォローでいうのだった。「お前は顔はおじいちゃんそっくりだけど、性質やものの考え方は私の家の人の心だと思うよ」…あまり有り難くなかった…。
祖母がよく言っていた事のひとつに、「人は死ぬと、自分が好きな年令にもどってその姿形を持つのよ」というのがあった。
今、祖母はどんな姿をして、誰にまっ先に会いにいっているのだろう。
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