2004年6月6日(日)
穏やかに休日を過ごして心を整える。もくもくとビーズアクセサリーを作る。半貴石やマーキス、スワロフスキーやチェコなどのひと粒ひと粒に、光が宿っている。何気ない動きの小さなその瞬間にもキラッと光るのを忘れない。テグスに3粒もビーズを通せば、もうそれだけで美しさが際だって輝き出す。楽しい。ただただ楽しい。
6月に雨が降るのは当然のこと。でもその度に思い出す記憶がある。
長くて重い話を端折ると、私は生後4ヵ月で実父を失った。私が胎内に芽生えた瞬間にはもう、父は死病に犯されていて、周囲にそれが知れ渡っていたし、本人も悟っていたそうだ。この人の記憶が私には全くない。私の誕生をたいそう喜んでくれたと言うけれど、なにやら物悲しくて切ないお話である。母は私を抱えて随分苦労しながら一人で生きていた。毎度、何かしらトラブルを抱えていた祖父母は頼りにならず、私と二人で生きて行く方がよほどに気楽だったと母は言う。数年後、母に大いに同情した周囲の計らいで、私を連れて再婚した。継父は勇ましい、猪突猛進な男性だった。妹が生まれ、我が家はそこそこの普通の家族の形をとってしばらく過ごす。けれどふたたび不幸が前方に廻り込んで待ち受けていた。継父までが私の実父と全く同じ病に犯されたのだ。
母の悲嘆を想像するにかたくない。この事実は、さすがにのんきな母の親と弟妹をも直撃した。なぜこれほどに不幸が続くのだと、みんなが悲しんだ。
長い闘病生活の果てに継父が逝く前後、母の3人の弟のうち一番下の弟であるT叔父が、男手がなくなった私達家族を一生懸命サポートしてくれた。母が17才の時に生まれたと言う叔父は、実質母の息子のようなものだった。私には兄のようであり、人生の指針と仰いで頼りにしていた。
6月の、ある大雨の日の夜に電話がかかってきた。T叔父が車にはねられ、意識不明の重体だと。
雨の中を、青信号で横断歩道を歩き始めた叔父は、脇に気をとられながら勢い良く右折してきた車にはねられたのだ。目撃していた人のお話だと、それはあまりにも一方的な、理不尽な事故であったという。
叔父の体は5メートル以上飛び、激しい勢いで歩道に叩き付けられた。
駆け付けた私達は、叔父の頭蓋骨がボッコリと、歩道の形に陥没しているのを見た。
私の父…継父が亡くなってわずか半年後の事である。母は、夫を亡くした時より辛いと泣叫んだ。
叔父は命をとりとめた。植物人間として。
加害者は日本一有名であろう総合商社のエリート社員で、出張の帰りであり大変疲れていたと言う。
泣いて泣いて、土下座する彼の後ろで、仕方無さそうに頭だけ下げていたショートカットの奥さんの顔が忘れられない。こんなことで自分の幸福を失ってなるものかという意地が、唇の歪みにでていたよね、と後で親類みんなで話し合った。
6月は、どうしようもなく、永遠に悲しい月になってしまった。父を亡くしたのも、叔父を実質亡くしたのも同じ18才の時である。6月が嫌い。とても嫌い。悲しい月だと当時の私は思った。泣くしかなかった。
20年の歳月が流れた。叔父の事故から6年後の6月に、私は結婚した。それからさらに7年後の6月に娘が誕生した。私は初めて、自分が生まれて来た事に感謝した。意味があると思えた。この子を生み出し育てるために私は生まれて来たのだと、それまでそこにあるとも知らなかった心の穴を埋められる気がした。
さらに2年後に息子が誕生。
今、6月は私の一年の中で一番賑やかで、楽しみ尽くす月になっている。どんな神の悪戯かと思う。
叔父は意識を回復し、奇跡と言われた。が、それは乳児程度の反応を引き出せるということにすぎない。
死ぬより辛い生がある、と、今生きている人達の内、どれくらいの人が知っているだろう。何もない、なんにもない普通の生活が、どれほどの偶然の上に成り立つ儚いものであるかを、どれくらい感じている人がいるだろう。判らない事が幸せなら、私は不幸と言う事になる。喘息の発作や、難産の危機で何度も死にかけた。その瞬間の苦しさを私は忘れられない。継父がその闘病生活でどれほどに苦しみぬいたか、あの生々しさを忘れられない。だからつまらないことで「死にたい」とは言えない。口が裂けても。
絶望したとき、私はただただ消えたい、このまま空気に溶けてしまいたいと思う。臆病風に吹かれっぱなしの私は、これから先も自殺することだけは絶対ないだろう。
それでも私は人生を楽しんでいる。ささやかな人との交流の中に、温もりを見い出し、嬉しくなる。美味しいものを食べ、本や映画、ゲームの中でのバーチャルな恋や冒険を楽しむ。
自由気侭に、激しい思い込みを抱えて周囲を振り回しながら生きた祖母が一番愛したのが末っ子のT叔父だった。神(か悪魔)は不屈の精神の持ち主だった祖母をあざ笑うように、晩年に一番の苦悩を与えたのである。
その祖母が逝って一ヵ月。2番目の叔父からの話が母を通して伝わって来た。どうもT叔父も長くないようだと。覚悟はしておけ、と。
目を閉じると、元気で溌溂とした叔父が、笑顔で私や妹へのお土産を持ってドアの向こうに立っている姿が目にうかぶ。もっと昔は。高校生の叔父にじゃれついて遊んでもらっていた私。受験勉強をしている叔父の膝に這い上り、無理矢理シンデレラの絵本を読ませた。クリームパンのクリームだけ食べたら、残ったパンをこの叔父に渡して食べるように命令していた私は3才。母が私を連れて再婚する時、引っ越しの手伝いをしてくれたT叔父。私が自分の生い立ちをはっきり知った時に、実父のことをとても良く話してくれた叔父。
際だって整った顔だちの、勉強好きで、ジャズ好きだったその青年の年を、もう私は幾つも越した。
時に幸福な人、と呼ばれる事がある私は、時々ただ涙を流す。
祖母はいつかきっと、T叔父の事を呼ぶのだろう。
日曜日だけれど仕事に出ていたオットが帰って来て、娘を体操教室に連れて行った。来ていたお友達のご主人と「冬のソナタ」の話をして夫婦で盛り上がった。レンタルビデオ店で運良く続きを借りる事ができた。夕食をファミレスで楽しく済ませた。美味しくて楽しくて子供達ははしゃいでいて、オットは上機嫌で。子供達を寝かせて夜に夫婦で飲むワインは安くても美味しくて。
T叔父のことも、継父の事も実父の事も、私の心の底に深く深く沈みながら、それでも時々微かな光を受けてはキラっと輝き返してくる。
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