2004年7月17日(土)
オットは自分を「聖人君子」と言う。一番の理由は浮気をしていないから、というのである。それから家族のために働き、仕事が終わるとほぼまっすぐ家に帰っているから、と。それは当たり前のことではない、という認識の彼に違和感を覚えるなあとため息をつく。私もオットに誠実であり、家族中心に生きているのだが、当然のことであってそれほど賞賛してほしいとは思わないのだが…。
ここまでできないだろうと思えることを心をこめてしてくれて、そして一切自慢をしない幼稚園の先生、私が頭を下げることさえやめてくれとおっしゃる先生となぜ対極のことを言うのだ、オット。私の清らかな(笑)日々はごく当然のことで、あなたの毎日はそこまで善行なのか。また一つ、嫌いな言葉が増えたよ『聖人君子』
ちなみに今は、たとえば土曜日の習い事に行くと、集まった子の付き添いの半数はお父さん一人である。まめまめしくタオルやハンカチ、飲み物を用意し、子煩悩に子供の成長に手を貸している。習い事の先生ともきちんとお話しし、私たちほかの父兄への挨拶も立派である。オットが基準に置いてるのはいつの時代の日本男児なのだろうかと思う。大体が結婚するとき、すべては平等にと自分から約束した彼である。家事も育児もできるだけ手伝うと。それがいつから恩着せがましく自慢に思うことになったのだろうか。自分のパンツも靴下もださないのにさ〜。
夕方、子供達に今年初の浴衣と甚平を着せて駅前の盆踊りに出かける。すごい蒸し暑さに意識朦朧。たくさんの知り合いにであって、挨拶をかわす。7人目くらいまでは数えていたけど、その後はよく判らない。
人生は、しょせん死ぬまでの間の暇つぶし、と言う。永井路子先生の著作のどれかで、登場人物が言った言葉である。それが頭について離れない。
愛を知らない人生は豊かとは言えない。愛による喜びは大きい。けれど愛するが故の苦悩も悲しみも大きい。愛するということは執着するということだ。執着は人をゆがめやすいという大きな副作用の力を持っている。愛のすべてが清く正しい訳ではないということもある。
願わくば、ささやかでも歪みなく、誠実を尽くして生きて死にたいと思う。人生はどこかゲームに似ているけれど、派手なゴールでなくてもいいのだ、ぶっちぎりの1位なんて願わない。いろんなことに驚き感激しながら、一日一日の一コマを大切に生きて行って、それで順当に「死」というゴールにたどりつけたら…。でもそれが難しいことだったりするのね。
幸福であるように最善、全力を尽くすことに、ちょっと疲れたりすることがある。
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